喰らう

 「お前は憶えてはいないだろうが」
 唐突に彼女はそう話し始めた。白いシーツの上に細かな皺を作って隣で腹這いになっている彼女の白い肢体が淡い午後の光の中で気怠そうに動く。少しこちらに向けられた顔にははらはらと髪が降り掛かり、その隙間から独特な色合いの瞳が覗いていた。
「以前私はお前に喰われてやったことがある」
 髪の間から零れる赤い唇の輪郭がふっと和らいだ。それは母親が子供に対する時のような慈愛に満ちた微笑みだった。
「生まれ変わる前の話だ。お前は農村の貧しい青年で私はその家畜の山羊だった。ある年酷い飢饉に見舞われてやがて食べる物が底をついた。ミルクを得る為に飼われていた私にもついに飢えた家族の目が向けられた。ミルクよりも肉をみんなは欲しがっていたからだ。ある朝、お前は家畜小屋にやって来ると、私を撫でながら、ごめんよと悲しげな目で何度もそう呟いた。もう片方の手には斧が握られていた。でも私はただ静かにお前を見ていた。斧が振り下ろされるその瞬間まで、ただ黙って静かにお前を見ていた。何故なら――」
 慈愛に満ちた眼差しはそこまで言うと一瞬沈黙し、より深い眼差しになってこちらを見た。
「お前は知らなかったろうが、私はお前を愛していたからだ」
 微笑する唇は赤く赤く、その内側に流れるものの色を示していた。
「本望だった。これ以上の幸せがあるだろうか、と斧が振り下ろされるその瞬間に私は思ったのだ。私はお前に喰らわれて、お前の体の一部となるからだ。やがて血となり肉となり、その命を幾ばくかでも食い繋ぐだろう。それは至上の愛し方ではないか、と」
 彼女の左腕が熱を冷ますようにひんやりするシーツの上を暫く這っていたが、やがてそれは髪に差し入れられるとそれを掻き上げた。
「そう思ったんだ」
 暫く彼女の語る言葉を聞いていた俺は彼女の言葉が終わりを告げると共に話し出した。
「君は憶えていないかもしれないが」
 起こした上半身を片手で支えながら目で彼女の顔を捉えている。先程から血色の良すぎる唇に目が吸い寄せられていた。白一色の中で見るそれはやけに鮮やか過ぎてどうにも艶かしい。
「昔俺は君に喰われてやった事がある。今生よりずっと前の話だ。君は貧しい村の生まれで毎日食べていくのがやっとの生活だった。俺は君の鶏で、唯一の友達でもあった。けれど貧しさは日々増して行くばかりで、食べる為以外の家畜を置いておく余裕などその内に無くなった。卵を産まない鶏は食べるしかない。ある朝、君は鶏小屋にやってくると、目に大粒の涙を溜めながら、ごめんねと何度も囁いて俺の首に手を掛けた。その手が俺の首をへし折るその瞬間まで、俺はただ穏やかに君を見ていた。何故なら、俺はずっと君を愛していたからだ。君は気付かなかっただろうが」
 寝返りを打った彼女の体がこちらへ向けられていた。胸元に引き寄せられたシーツの襞が一瞬で動きを止めた荒々しい波の絵のようだ。
「俺たちはそうして今まで何度となく互いに喰って喰らいあってきたんだ。人間とその家畜として生まれ、喰らいあった。共に体は相手の血となり肉となってその体の一部となり、命を差し出して、互いの命を繋いできた。それがずっと俺たちの愛し方だったからだ」
 聞いているその瞳には相変わらず慈愛の篭もった笑みが浮かんでいたが、赤い唇がすっと開くと、
「ええ」
 と柔らかく動いた。
 赤い赤いその色が瞬間に何かを掻き立てて行く。何度も流された血を象徴するその色は生々しくそれを誘っていた。
 そしてその笑みでさえ、今まさにそれを望むようにこちらに向けられている。
 『喰らえ』、と。
 それが与えられた宿命ではないかと言わんばかりに。
 何度も繰り返された過去の縁(えにし)からは決して離れられないと言うように。
 俺は体勢を変えると彼女を覆っていた白い物を剥いだ。昔、毛皮を剥いだ時のような手付きで。泣きながら悔しくてしょうがなかったあの時の気持ちを彼女は知らないだろう。それが愛に値するものだと言う事も。
「――喰らう」
 告げると同時に俺は喰らい始めた。生温かい体温はその下に流れる血の温度だ。命の証。手の中でそれは今柔らかく息衝いている。鼓動の音が肌を伝って届く。手を当てると規則正しい響きがした。身を捩って擽ったそうにするその白い体が過去幾度と無くその命を奪った小さな魂を思い出させて、抱き寄せると頬ずった。過去、奪って、奪い合った。与えて、また与え合った。
 『喰らう』とはそう言う事なのだ。
 そして俺たちにとって喰らいあうことが『愛すること』だった。
「ねえ、私を――」
 喰らわれながら悦びに満ちた表情を浮かべて行く彼女の指が、俺の口にあてがわれた。それはこじ開けて中へ入り込もうと懸命にもがいている。
「私を、もっと喰らって――よ?」
 薄く唇を開くとその隙間から指が入り込んだ。それを喰らうと彼女は満足気に微笑んで、その悦楽さに囚われて行く。漏れ始めた嬌声は命を奪われる断末魔の声に時として似ていた。その声を塞ぐように唇を寄せれば吐息が頬に降り掛かった。赤い唇から漏れる吐息は命の息吹を思わせる。それを吸い込むように柔らかな唇を包むと、生き物の生温かさが口一杯に広がった。まるで血潮が広がって行くように。

 ――喰らって――?
 ――ああ喰らうさ、例え何度生まれ変わっても、何度でも何度でも喰らってやるさ

 最後にそう言い交わした後の、泣き顔にも似た彼女の絶命した表情を、薄れて行く朦朧とした意識の端で見ていた。
 過去に何度も何度も見た表情だ、そう思いながら。

 ――それでも手にしたこの温もりは、再び目覚めた時にまだこの手の中にある筈だ。過去と違った、生きた血潮の通った温もりが。

 握った手の中の細い腕を感じながら、泥のような眠りの世界に引き摺り込まれていく意識の向こうで――。

 『ソレガオマエタチノアイシカタダカラ』



 運命の神がそう笑った気がした。

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* 執筆 * 2008..02.03 *
少し前に書いたやや大人的要素の(笑)お話です。
文章が今よりも装飾的なのが何とも恥ずかしいです。
この時期、風邪でお腹の調子が悪く、しばらくちゃんとしたご飯が食べられず、あまりのひもじさに浮かんだお話でした。