「音楽家というものは刹那的だと思いませんか」
窓辺に座った彼がそう言ったのを俺は背中で聞いていた。
「ねえフェイエット」
俺がその名で呼ばれるのを嫌っていることを知っていて彼は敢えてそう呼ぶ。この女のような名を「嫌いだ」と言った時、彼は笑って「私はでも好きですよ」と臆面も無く言ったのだ。そのたおやかな顔に天使のような微笑を浮かべて。
「何がだ?」
動かしている右手のペンを止めずにそう問い返すと、背中越しに微かに笑う気配がした。
「何も残せないのですよ、私達音楽家は」
弦を爪弾く音と共に、そんな言葉が聞こえてきた。手にした楽器でただ和音だけを奏でるその指は、まるでそれが癖のように、彼が言葉を語ると共に無意識に動いている。
「貴方のような小説家はペンでその物語を残し、絵描きは絵を、彫刻家は刻んだ彫像を残します。でも音楽家は何ひとつとして残すことが出来ないのですよ」
「楽譜が残せるだろう」
響いていた長調の和音が単調へと移行した。物悲しい音色が狭い部屋の中を流れ始める。
「そうですね。でも楽譜はただ単なる音の指標にすぎません。その旋律を記録することは出来ても、音そのものを記録する事は出来ないのです」
「それはそうだ。そんな事が出来るとしたら、そいつは神か何かだろう。だがそれが音楽というものではないのか?楽譜が残れば後世その音はずっと受け継がれ、奏でる人間が千人いれば千の音で奏でられる。決して音は一人の人間のものではない。刹那的だと言ったがそれは残す必要がないからだ。その人間の音はそいつにしか出せない。それを残して後世に伝えても、それが何になる。それをそっくり真似る奴の音楽などもはや音楽ではない。……聞く人間の心に残ればそれでいいんじゃないのか?」
いつの間にか止まったペン先を見つめ、少し饒舌になりすぎたと思いながら、そして柄にも無く気障なことを言ったことを後悔しつつ、俺はそこで口を噤んだ。部屋に流れていた単調の調べはいつしか止み、ただ蝋燭の火だけがゆらゆらと影を揺らしていた。
「私は貴方の、そんなところが好きですよ、フェイエット」
思わず振り返ると、長い銀髪に覆われたほっそりとした顔に浮かべられたたおやかな笑みがそこにあった。いつもその場所で彼はその微笑を湛えている。
「よせ、気持ち悪い」
真顔でそう答えると、楽しそうに笑った。透けるような白い肌が一層透き通って見えるのは蝋燭の灯りのせいだろうか。
「では今宵は貴方の心に残る音楽を何かやりましょう。何がいいですかフェイエット?」
「何でも好きにやってくれ」
気障な物言いに、大きく肩を竦めてまた書きかけの原稿に視線を戻してペンを走らせ始める。
「恋の歌でも歌いましょうか?」
その言葉に一瞬ペンを止めるとまた肩を竦めた。
「興味が無い」
するとクスリと笑う声がした。
「興味が無いなら、それでは貴方が今書いているそれは何なのですか?恋の話では?」
「大衆はこういうものを読みたがるからだ。俺のような売れない小説家には選んでいる余地は無い。喰っていくためだ」
弦を爪弾く音がして、やがて声がした。
「そうですね――私も、興味はありませんよ」
その言葉の薄い力無さにふと振り向いた。どこか遠くを見るような、儚い眼差しは窓の外に向けられている。火影の具合かそれは物悲しそうな面持ちを作り出している。……物悲しく、どこか切なげなそれは初めて見る表情だった。
「――恋でも何でもいいからやってくれ。話が煮詰まって進まん」
思わず目にしてしまった表情に、何か言葉を口にしなければと思う妙な焦燥感が湧き上がった。見てはいけないものを見てしまったような奇妙な感情だった。
「今夜は付き合ってくれ。明日までにこれを書き上げねばならんからな。お前の音楽は何故か筆が進む」
「――いいですよ」
先程の弱々しい声ではない、いつもの穏やかな声がした。
「出来れば夜を共にするのはご婦人のほうが嬉しいのですが」
「お互い様だ」
「そうですね。私も貴方のごつごつした胸板よりは女性の柔肌のほうが好きですから」
「悪かったな」
「でも貴方は好きですよ、フェイエット」
――ペンを止めた。徐に振り返る。
「いいから――」
白い顔に浮かぶたおやかな笑みを見ながら、その顔にペン先を突きつける。
「早く弾いてくれ。――それから」
アクセントをつけて、一語一語噛んで含めるように言う。
「そ の 名 で 呼 ぶ な」
それから彼が逝ったのは、半年後のことだった。
肺を病み、急激に痩せ細ってある朝眠るように逝った。
おそらく、あの夜彼の白い肌が透き通って見えたのは、その時彼がもう病魔に侵されていたからなのだろう。
そして彼は、それを知っていたに違いない。
眠るように逝った彼の死に顔は、変わらずたおやかに微笑んでいた。
今にもその唇から「ねえフェイエット」と言う声が聞こえそうで、俺はずっとその色を失った痩せた唇を見つめていた。
「フェイエットさんですか?小説家の」
いきなりその名で呼ばれて驚いた。小説家としての俺の名は「フェイエット」では無かったからだ。
突然訪ねて来たその若い女性は、ドアの外に立っていた。手にはまだ幼い赤ん坊を抱いていた。
「そうですが、何のご用件ですか」
訝しげに見ている俺の視線を感じて、彼女は少し笑った。その笑みは濁りの無い、無垢な聖母のような笑みだった。
「これを、貴方に」
赤ん坊を抱いた手とは反対の手に持っていた布に包まれた何かを差し出した。
訝しげな顔のまま受け取ってその包みを開く。
「これは……」
中に包まれていた楽器を見ながら、女性の顔に視線を移した。
「形見です、彼の」
微笑む女性の顔は縁取る柔らかな金髪の中でたおやかに見えた。
「――貴女は?」
部屋の中に通すのも忘れて俺は立ち話のままで訊ねた。女性は微笑したまま俺を見ていたが、やがて答えた。
「ジョスリンと言います」
そして手に抱いた赤ん坊を見た。
「この子は、彼の娘です」
銀髪のその赤ん坊を見た瞬間、それが嘘ではない事がわかった。あの珍しい銀の髪を持った赤ん坊はそう他にはいないだろう。
女性と赤ん坊を見ながら、俺は同時にいろいろな事を考えていた。
あいつに子供がいたなんて、まず驚くべきことであり、そしてその前に、こんな女性がいたなんて事は聞いていなかった。何だ、「恋に興味はない」なんて言っていながら、あれは嘘だったのか。子供までいるんじゃないか、何だよそれ。だいたい、俺に隠してたなんて水臭い奴だ。友人だと思っていたのに、奴の方ではそうではなかったのか、それとも何か言うに言えない事情でもあったのか――
そんな事が頭の中を廻っているうちに、それまで黙っていた彼女が口を開いた。
「彼は、貴方が好きだったんです」
柔らかな微笑を浮かべて俺を見つめている彼女を、俺はまじまじと見つめ返した。
「本当に好きだったんです――それを恋だと呼べるくらいに」
何を言っているのだろう、この女性は。よく理解が出来ず、ただひたすら彼女を見つめ続けた。
「この子の名前を『フェイエット』と名付けるほどに、あの人は恋していたんですわ」
手の中の赤ん坊を見ながら女性はそう言った。
「だから、これは貴方にお渡ししようと」
「ですが――」
信じられない気持ちのまま俺は訊ねた。
「それなら、貴女と彼の関係は一体――」
彼女はまた微笑んだ。そのたおやかな笑みは彼のあの微笑みを思い出させた。
「普通の、……とは言えないかも知れませんけれど。それでも、少なくとも私と彼は恋人でした。多くはここで語れませんけれども。一つの恋の形だったと私は思っています」
そう言うと、彼女は別れを告げて去って行った。
ただ呆然と戸口で立ち尽くしていた俺は、手にした楽器に気付いて漸く我に返った。そしてドアを閉じると、重い足取りで部屋の中を歩いて窓際に座った。彼がよく座っていた場所だった。ここでいつも微笑しながら俺の背中を見ていた。「ねえフェイエット」用も無いのに語りかけた。
手の中の楽器を爪弾いてみた。ビン、と弾かれたそれは、震えて音をたてた。けれど、もうあの優しくも物悲しい音は鳴らなかった。どんなに聞きたいと願ってももうあの音楽は奏でられなかった。
『音楽家というものは刹那的だと思いませんか』
あの声が甦った。
『何も残せないのですよ、私達音楽家は』
手の中で弾かれた弦が悲しげな音をたてる。
『その旋律を記録することは出来ても、音そのものを記録する事は出来ないのです』
俺はあの時、何て言った?
『残す必要が無い』と。『聞く人間の心に残ればそれでいいんじゃないのか』と。そう言ったではないか。
では今、どうしてあの音が聞きたくて仕方がない?もう二度と聞けないあの音が、何故こんなにも恋しいのか?
震える指が弦を弾くごとに、ぼたぼたとその上に目から零れ落ちた涙が降った。
聞きたくて聞きたくてしょうがない音はもう鳴らない。
「ねえフェイエット」あの声はもう背中越しに聞こえない。
こみ上げた嗚咽は堪えることが出来ずに堰を切ったように溢れ出た。止め処が無いようにいつまでもいつまでも。
泣き崩れるように楽器に縋って肩を震わせた。
失くした物のその存在を思い知るように。
やがて泣き疲れてぼんやりと薄暗くなった部屋に視線を漂わせていた時に
『何も残せない』
再び彼の声が心に甦った。
――そうだろうか?
俺は漠然と考える。
それならば。
彼女の手の中にあった、あの小さな赤ん坊は?
何よりも、奴の残した替え難いものではないのか?
形ある、生きた証ではないか。それこそ、音楽と同じくらいに。
それに――。
それに俺は覚えている。あの音を、あの笑みを、決して忘れる事無く覚えている。
『聞く人間の心に残ればそれでいいんじゃないのか』
そう言った時、奴は嬉しそうに笑っていたではないか。
『私は貴方の、そんなところが――』
そうだな、ああそうだよ。
ずっと知っていたような気がするよ、本当は。
「俺もずっと、好きだったよ。お前の音と、お前が――」
星が瞬き始めた空を仰ぎ見た。
「なあ、ペイジェント」
その名を口にするのは久し振りだった。何故だろう、その名をあまり口にしなかったのは。
いなくなって、その名で呼ぶのは不思議な気がした。
けれどもきっと、彼が生きているうちは、その名で呼ばなかっただろう。
ふっと笑うと服の袖で涙を拭った。
そして立ち上がると、歩いて行って紙の散らばった机の前に座った。
――『何も残せない』
「そんな事はあるもんか。俺が書く」
書くから。お前を。
蝋燭を灯してペンを取り上げると、紙の上に走らせ始める。
もうあの音は聞こえないけれど、あの声はしないけれど。
それでも次第に世界は穏やかな空気に包まれ始め、いつしか背中越しに音楽が流れ始めていた。その音を聞きながら物語りは紙の上で息衝き始める。
たおやかに笑う音楽家の物語を。彼の奏でる音と、そして彼が愛しんだ者達を。
「ねえフェイエット」
物語はその言葉から始まる。
彼が好きだと微笑んだ、彼が愛したその名前で…。