錯覚から生まれる恋はあるのか

 ホテルに泊まる時、彼は同伴の女性に必ずこう言ったそうだ。
「化粧はとらないで」、と。
 ベッドの上で、そして朝目覚めた時に、興醒めしないためだった。
 彼は女性の外見しか見ていなかった。女性の外見の美しさだけを愛した。
 そのせいで、次々と付き合う女性を変えた。
 一時は一人の女性に夢中になる。女性の持つ怪しさ、危うさ、男を惑わせるその魔力の虜になった。
 虜になって、揺れに揺れて溺れる自分に彼は酔った。自己陶酔の極みだった。
 けれどもすぐにその夢からは醒めた。
 一人の女性が魅せる魔性は、一時彼を魅了してもやがては尽きる時がやって来る。
 いや、女性そのものに何ら変わりはないのだろう。
 ただ彼が自己陶酔している自分に飽きるのだ。
 魔法が解けてしまう。
 どんなに女性の外見の美しさに惹かれても、すぐにその魔法は解けてしまう。
 何故なら彼は女性の外見しか見ていないからだった。
 美しいものは数日見れば飽きる。
 まるで化粧をとった顔を見た時のように、急激に彼はいつも興醒めした。
 その途端、その女性に抱いていたと思っていた恋心は幻のように儚く散った。
 ただ気だるさだけが残った。
 携帯に彼女からの着信があってももはや無視を通した。
 友人には「面倒になった」と漏らした。
 そしてその恋は終わった。
 いや彼が「恋」だと錯覚した「自己陶酔」は、いつもそうして終わりを告げた。
 彼はいつも自分だけをこよなく愛した。
 女達に狂わされ、惑わされてくるくる踊る自分をたまらなくいとおしんだ。
 女性を愛していたわけではなく、女性に溺れている自分を愛しているのだということに、彼は気付いていなかった。
 彼はどうしようもなく馬鹿なほどにナルシストだったのに、まだそれに気付いていなかった。


 その彼が全く今まで出会ったことの無いタイプの女性と出会った。
 今まで出会った女性達のような、駆け引きも惑わしもしない、普通の女だった。
 けれども、彼女はどこか自分に似ていた。
 それは自分しか愛せない、そういう共通点だったが、彼はただ漠然と似ていると思った。
 似てはいるが、性格はまるで正反対だった。
 彼女は人の内面を重視した。
 外見に惑わされず、内面を見通して人を愛した。
 その愛情は博愛的なもので、男女に関わり無く捧げられた。
 そして彼女もそんな自分を愛していた。
 平等に人に愛情を捧げる自分を愛していた。
 完全なる自己陶酔だった。
 その愛情は、分け隔て無く彼にも与えられた。
 外見でも無く、内面を見て愛情を与えようとする彼女に、彼は衝撃を受けた。
 いつも女達は、彼がそうするように、ほとんど彼の外見を愛したからだった。
 彼の端正な容姿をまず彼女達は愛でた。
 それを知っていて、彼もその秀麗な自分の外見を愛したのだった。
 だからその外見ではなく、まるで誰も見ようとはしなかった、むしろ疎んじられていたほどの自分の内面を愛そうとする彼女に、彼はただ驚いた。
 驚き、そして戸惑い、まるで感じた事の無い感情を覚え始めた。
 彼女が笑うとただ嬉しかった。
 どんな情況でも暖かく受け入れようとする彼女の優しさに、だんだんほだされ始めた。
 多少の我儘も笑って許してくれる。
 我儘の後ろに隠れている淋しさや悲しさを読み取ってただ笑ってくれる。
 その笑顔に、心が揺れ始めた。
 今まで女性にそんな感情を抱いたことはなかった。
 女性との関係は、ただ駆け引きの妙味だと思っていた。癒されたことなどなかった。
 それがどんどん心の中に入って来る。
 阻止しようとしても、止めようとしても、止まらない。
 次第に心は彼女のことで一杯になった。
 いつも彼女のことを考えるようになった。
 側にいないと淋しくなった。あの暖かさをいつも感じていたいと思うようになった。
 それが恋の始まりだということに、彼はそのうちに気付いた。
 いつも外見だけを愛してきた女性達との違いを、彼ははっきり知った。
 あまりに今までとの恋の違いに、いろいろ考えすぎて彼はだんだんボロボロになっていった。
 けれどもそのボロボロで滑稽な自分も、彼は嫌いではなかった。
 むしろそんな自分が、いとおしいとさえ思った。
 今までに無いほど不器用な自分が、可愛かった。
 自己陶酔する前に誰かの事を考えるのは初めてだった。


 ただ彼女はそうではなかった。
 博愛的に彼を愛した。
 他の人を愛するのと同じように、そして同じ程度に彼を愛した。
 彼女にとって彼は、他の人と同じくらい大切だったからだ。
 だから彼の態度の変化を奇妙に思った。
 急に甘えたり拗ねたりする態度の変化を不思議に思いながらもそれが恋だとは思い当たらなかった。
 だから彼女はそれからもそれまでと同じように接した。
 彼の態度は益々奇妙になって行った。
 普通に返事をしたつもりが、彼からは不服の態度が増えた。
 自分に対して冷たいと訴えるようになった。
 彼女はわけがわからなかった。
 みんなと同じように接しているつもりなのに、彼だけが拗ねるようになった。
 以前に増して甘えたり側に来たがったりするのは感じていたが、ただ姉のように慕っているだけだと思っていた。
 彼がどんな思いでそうしているか、そこまでは考えなかった。
 いや考えたくなかったのかも知れない。
 彼女はみんなと仲良く暮らしたかった。
 一人の人間からの訴えるような眼差しも、懇願するような遠まわしな言葉も、心に入る前に無意識に除去していた。
 恐れていたからだ。
 そうなる情況を、誰かの思いを受け止めなければいけない重さを、彼女は十分に知っていた。
 知っていたからこそ、彼女はあえてそういうものを気付かない振りをして受け流してきた。
 真摯に受け止めればきっと傷付く時が来る。
 自分も相手も無傷では済むまい。
 相手が真剣であれがあるほど、傷は深いだろう。
 そう思うからこそ、博愛主義の振りをしてきた。
 何も気付かない振りをしてきた。
 なのに目の前の彼はどうだろう。
 まるで初めて恋をした少年のようにうっとりとしているではないか。
 そう思った時、彼女は恐怖した。
 このまるで初心に見える、女性の何もかもを知り尽くした筈の男をどうすればいいのだろう。
 どう扱えばいいのだろう。
 今の彼はまるで大きくて厄介な、我儘なだけの子供だった。
 愛情を欲しがっている子供だった。
 ただそれは母親のような愛情ではない。
 男の欲しがる女特有の愛情だった。
 飢えた目をした大きな子供を前に彼女は恐れながら途方に暮れていた。
 逃げ出すにはもう遅すぎる。
 それに逃げることは博愛主義の自分の意志に反することだった。
 逃げようとすれば彼は敏感に感じ取るだろう。
 それだからこそ、無意識に逃げようとしていた自分に彼は「冷たい」と表現したのだ。
 応えるべきかどうか彼女は悩んだ。
 もし今彼の気持ちに応えたところで、もしかしたら彼はまたすぐに飽きるかも知れない。今までの女性達と同じように。
 目新しい恋にただ夢中になっているだけなのかも知れない。
 所詮、彼も自分と同じナルシストだ。
 ナルシスト同士の恋はどうなるのだろう。
 相手に夢中になっている自分に恋をするのだろうか。
 それはまるで鏡に恋をしているのと同じ。
 けれど互いが鏡であれば、恋をし続けるのかも知れない。
 自分にでも相手にでもいい。
 恋が続くのなら幸せではないか。
 たとえそれが錯覚でも。
 錯覚から生まれた恋なのか、恋そのものが錯覚なのか。
 それは自分達にもわからない。
 けれどナルシストでいることを許される恋はとても開放的だった。
 似たもの同士。
 それほどの安心感はない。
 誰も責めないし誰も傷付けない。
 相手が飽きれば自分も飽きるだろう。
 互いに相手を好きな自分を好きなのだから。
 誰よりも自分を好きなのだから。
 

 恋とは全てが錯覚だ。
 彼と彼女はその錯覚に恋をした。
 まるでお互いに恋をするように、自分をいとおしむように、錯覚から恋は生まれいずる。

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* 執筆 * 2012.07.15. *
実はこのお話は、7割ほど実話です。
実体験に基づいて、3割の装飾を施して客観的に書きました。
ただ、結末だけは事実とは違っています。