続・錯覚から生まれる恋はあるのか

 彼が彼女に恋をしてから半年が経った。
 あれから二人の関係はずっと平行線だった。
 錯覚から生まれた恋は、奇妙な螺旋を描きながら二人の上に墜ちた。
 彼女に恋をした彼はあまりにその心の乾きに耐えかねて(何故なら彼女はやはり博愛的にしか彼を愛さなかったからだ)、闇の世界へと身を投ずるようになった。
 夜な夜な人妻との乱交に溺れた。
 それも一人ではない。
 何人もの人妻との夜を重ねるようになった。
 乱れに乱れる人妻との逢瀬は、乾ききった心を忘れさせ、心躍る刺激を与えてくれる。
 朝が来て、彼女達と別れる時は、淋しさも悲しさも何も無い、痛みを伴わないただ楽しんだ祭りの後のような気持ちで別れることが出来た。
 それは彼にとってこの上ないお遊びで娯楽だった。
 男も女も使い捨てにすぎない。
 それが彼の男女間についての定義だった。
 後腐れの無い関係。何よりただ互いに求めるものは非日常的で濃厚な、生臭いにおいのする享楽の時間。
 こんなに素晴らしい利益の一致をみる関係は無いと思った。
 どうせ女も悦びを求めることしか考えない。
 誘えば簡単に寝る女ばかりだ。
 そこに内面的なものを求めてどうなる。
 また傷付いた傷付けられたのと、面倒なことばかりではないか。
 そんなことにはもう疲れた。
 ただ楽しんでいたい。
 彼はその世界に浸りきる自分に、疑問を感じる事を一切拒絶した。


「僕は」
 ある日彼は彼女に楽しそうな顔を向けながらこう言った。
 まるでごく普通の会話をしているような笑顔だった。
「裏の世界にすっかりはまる事にしましたよ」
 何の事?と言った感じで彼女は彼を見た。
 彼は変わらず、にこやかに話を続ける。
「表の世界は刺激がなくて面白くありません」
 爽やかなスポーツの話でもしているかのように彼は言った。
 彼女は「そう」と言っただけで、それ以上何も聞かなかった。
 それが何かしら危うい臭いのする、関わるべきでない事だと言う事を、彼の口振りから察したからだった。
 彼が昂ぶった話し方をする時は、色めいた秘め事を含んだ話が多かった。
 それをさも楽しげに、彼女に語って聞かせるデリカシーの無い彼の性癖を、彼女は憎んでいた。
 まるでそれを知っていて、わざと自分を傷付けるような彼の行為が許せないと思った。
 そしてそれが彼の歪んだ甘えであり愛し方だということには彼女はまだ辿り着いていなかった。


 彼の言った「裏の世界」の意味するところを彼女が知ったのは、それからほどなくしてからだった。
 他人から偶然彼の所業について聞かされたのだ。
 彼女は戦慄した。
 よからぬ事とは思っていたが、まさかそんな身の毛もよだつ事に身を染めていようとは。
 あの時の彼の不気味な笑みが甦った。
 まさに世を嘲笑うかのような、挑戦的な笑みだっ た。
 世を…というよりも、思えばあれは自分に向けての宣言とも取れる意思表示だった。
 あえて言う必要のない内面的な世界を、自分の内情を、わざと彼女に向けて宣言したのだ。
「あなたが愛してくれないから僕はこんなところに来てしまいましたよ」、と。
 それは言うならば身勝手で利己的な、まるで都合のいい思惑だった。
 子供が親の愛情を引き出そうとする暴挙に似ていた。
 彼女の愛情を素直に欲しいと言えばそれで良かった。けれどもそれが彼には出来なかった。
 そう言う術を全く知らずに今まで女達に翻弄されて来たからだった。
 駆け引きだけが恋だと思った。
 素直な甘え方を知らなかった。
 むしろそんな馬鹿な所業であてつけるように嗤うことが、彼の曲がった甘え方だったのかも知れない。
 自分を傷付けて、傷付いている事にも無感覚になってしまうほど、本当は愛情に飢えていたのにそんな自分にも背を向ける。
 そうやって彼は埋められない欲求を破滅的な行為に身を落とすことで埋めようとしていた。
 まだどこかで、彼女の救いを求めながら。


 彼女は彼に接する事に嫌悪と戸惑いを覚えるようになった。
 彼を見るたびに、彼と言葉を交わすたびに、彼と淫らな行為に及んでいる女達の姿が目に浮かぶ。
 いつどこでどんな風に彼は女達と逢っているのだろう。
 皮肉にもずっと博愛的に彼を愛してきたはずの彼女が、初めて彼の事で頭が一杯になった。
 そしてそんなことを考えるたび、また皮肉にも彼への嫌悪と憎しみで心が一杯になった。
 何故彼はこんなにも私を苦しめるのだろう。
 自分なりに精一杯の愛情を注いでいるつもりが、全く彼には伝わっていないばかりか、見せ付けるように乱交に及んでいる。
 何もしてくれないから、もう貴女には用は無いんだよと言わんばかりの行動が、思いの外彼女を傷付けた。
 それは彼の曲がった愛情表現をずっと気付かないふうを装って、姉が弟に示すようなまるで色艶の無い愛情にすり替えて応えて来た事のツケだと言わんばかりだった。
 知っていても彼の要求は彼女にはどうすることも出来なかった。
 彼の女に対する認識は、彼女の認識と遥かに遠かったからだ。
 まるで異次元の住人のようだった。
 そんな彼に愛される事を、彼女は密かに怯えた。
 得体の知れない人間に見えた。
 けれども本当は、心のどこかで自分と彼は似ている、そうも思った。
 自分しか愛せない可哀想な人間。
 可哀想な人種。
 その同じ種類の人間だと本当は知っていた。
 知っていたから彼の孤独を誰よりも身近に感じていた。
 誰にもわからないその孤独さを、淋しさを、分かち合えるのは彼だけしかいないと思っていた。
 広い荒野にポツンと立ち続け、初めて出会えた人に心を奪われるように、互いに惹き合っている。
 それは止むを得ない事。
 すでに彼に惹かれ始めている自分がいるという事実にも、彼女は気付いていた。


 次第に嫌悪の態度を露わにするようになった彼女に、彼は度々あてつけるようになった。
 わざと性的な発言をしたり、女性関係の話をしたり、返答に困っている彼女を見て楽しんでいるふうだった。
 度が過ぎて彼女が怒った顔で黙りこむと、「怒らないで」とか「優しくして」と甘えた顔をした。そんな時の彼は妙に素直だった。
 自分の意のままに怒ったり傷付いたりする彼女の姿を見ると、いくらか埋められない何かが満たされる。
 その顔が見たくて、また彼女に対する悪質な嫌がらせが続いた。
 曲がった感情表現は、反対にどんどん彼女を苦しめていく。
 螺旋を描いて二人の上に、恋は墜ちた。
 

 事件が起きた。
 悪戯が、ある日突然裏切りに変わった。
 彼は嘘をついてわざと彼女を傷付けた。
 それは耐えてきた彼女にも許せないほどの裏切りだった。
 悪戯程度ならまだいい。けれど、わざと困らせるために仕組まれた罠は、彼女の限界を超えた。
「あなたが甘いんですよ」そう嘲笑う彼の顔が目に浮かんで、苦痛が胸を刺した。
 博愛主義だからと彼の仕打ちにあからさまな拒絶の態度をとらなかったのは、考えが甘かったのだと悔いた。
 自分なりの愛情を注いでいれば、いつかは彼もわかってくれる。
 そんな思いが浅はかだったのだと。
 自己満足だったのだと思い知らされた。
 彼はそんな単純な人間ではない。
 もっと複雑で、根本から曲がりくねったどうしようもない人間だ。
 人が赤だと言えば黒で覆い尽くすだろう。白だと言えば「ああ白ですね」そう言いながら青をぶちまけるだろう。人の揚げ足をとって相手を追い込み楽しむ。
 そんな悪趣味な性格だった。
 自分と似ているなどと感傷に流されたことを彼女はなんて馬鹿だったのかと思った。
 似てなどいないではないか。
 少なくとも、自分はあんなに人を傷付けたりはしない。
 彼女はそれから貝になった。
 彼の視線を無視した。
 話しかけられても必要最小限の答えしか返さなかった。
 初めはいつもの調子でからかい半分に話しかけていた彼も、そのうちに彼女の変化に気付いた。
 拒絶と拒否。
 いっさいの彼からの問いかけに淡白だった。
 視線を合わさないよう目を逸らした。
 今まで注いでいた博愛的な優しさや愛情の供給を絶った。
 彼は沈黙した。
 黙って彼女を見た。
 自分の方を見ようとしない彼女の顔を見ていた。
 笑って優しさや温かさをくれた、今はもう笑わないその顔をずっと見ていた。


 彼女がふと目を上げると、黙ったまま彼が立っていた。
 真顔で怒ったような目をしていた。
 まるで気に入らないとでも言うような、冷たい色をした目はしばらく彼女を見据えた後、ふいと違う方を向いた。
「××さん、一緒に××へ行きませんか」
 違う人間に向かって彼は声を掛けた。
 それは彼女を誘うべき用件だった。
 前々から彼女が誘われるだろうことが決まっていた用件だった。
 それをあえて彼は違う人間に声を掛けた。
 彼女の目の前で、彼女に聞こえるように、わざと声を掛けたのだ。
 その時彼女は胸に痛みが走るのを覚えた。
 引っ掻き傷のような鋭い痛みだった。
 その場にいることに耐えかねて、彼女はそこを去った。


 何故こんなにも傷付けられるのだろう。
 彼女の目から涙が溢れた。
 愛情を注いでいるつもりが、何故こんなにも傷付けられなければならなかったのだろう。
 何故伝わらなかったのだろう。何が気に入らなかったのだろう。
 思いは次から次へと溢れ出た。
 彼の想いに真正面から応えてはいなくても、自分なりに精一杯の愛情は注いできた。
 あんなふうに傷付ける彼の心情がわからなかった。
 そこまでされるほど、自分は悪い事をしたのだろうか?
 自分の何が彼をそうさせたのだろう?
 考えてもわからなかった。
 そして何故こんなにも胸が痛くて涙が出るのかもわからなかった。
 自分を誘うべき用件を、他の人間に変えられてしまった事がこんなにも辛いとは思わなかった。
 涙が出る本当の理由はそこかもしれない。
 やはり自分は彼に惹かれている。
 嫌悪して憎んで拒絶しながらも、やはりどこかで惹かれている。
 惹かれているからこそ、他の女達との性的な話など聞きたくはなかった。
 嫌悪すべき噂話など聞きたくはなかった。
 複雑に絡み合う思惑の皮肉さに、彼女は顔を覆いたくなった。
 嫌悪と恋は、果たして同時に存在し得るものなのだろうか?
 存在、すべきものなのだろうか?
 いつまでも彼女は考えていた。


 酷く傷付けられてからしばらくその場所から彼女は遠のいた。
 居るべき時に、そこに居なかった。
 彼女が必要な用件の時、その場所にいない彼女の姿を求めて彼は立ち尽くした。
 いつもの笑顔がそこにない。
 その事実が彼を不安に突き落とした。
 当たり前にあると思っていた笑顔が優しさが愛情が、そこにない。
 そこにないと言う事実が、どんなに自分にとって大きな喪失感を与えるのかを、身を以って思い知った。
 何をしようにも落ち着かず、気が付けば姿を探している。
 冷たい風から守ってくれていた存在が、突然いなくなってしまった。
 いなくなってしまったから、その存在の意味に初めて気が付いたのだ。
 傷付けて傷付けてそれを知っていて、また傷付けた。
 傷付けることが自分の感情表現だったとしても、その方法はあまりにも幼すぎて拙すぎた。
 相手がどう思うかなど二の次だった。
 自分の満足度しか考えなかったその行動に、彼は初めて後悔という感情を覚えた。そして、同時に罪悪感を持った。
 人に対して罪悪感というものをほとんど持った事が無い。
 相手が傷付くのは相手に原因があるからであり、相手が悪いのだと彼はずっと思ってきた。
 ひょっとすると自分は感情の欠落した人間なのかも知れないと、罪悪感を持てないことに対して罪悪感を覚えたことはあったが、人に対してそういう感情を持った事は無かった。
 それは自分が傷付くことに対して無意識に心をシャットアウトした結果かもしれなかったが、人を自分の中に入れようとしないその生き方が、彼の自己を省みる行為を妨げ、情緒の発達を遅らせた。
 それが今、経験した事の無い後悔と罪悪感に襲われている。
 人を傷付けたことで自分も傷付いている。
 うなだれて彼はじっと一点を見つめていた。
 けれどその目はなにも映していなかった。


 気配に気付いて彼が目を上げると、彼女が立っていた。
 静かな目をして彼を見ている。
 それを見た途端、彼の心に安堵が広がった。
 失ったものが今目の前に戻ったその安心感に、心が緩むのを感じた。
 そしてその次に広がったのは、泣きたいような切なさだった。
 そんな切なさと言うものを彼はあまり知らない。
 孤独さに対する切なさはよく知っていたが、人を恋うる切なさは知らなかった。
 黙って静かに見ている彼女の視線に耐えかねて、彼は目を逸らした。
 どうしようもない罪悪感に襲われたからだった。
 どうしていいかわからない。
 いつものように相手が悪いのだと思う事が出来なかった。
 ふと彼女が目の前から移動して、別の場所で何かの作業をしている。
 謝罪の言葉を素直にかけることなど出来なくて、しばらく彼はじっとその場から動けなかった。
 


 彼女の目に映ったのは、見た事も無い彼の姿だった。
 うなだれ、目は虚ろにさまよい、気力が抜けたように肩を落としている。
 いつもの人を喰ったような傲慢な表情は顔から消えて、まるで迷子になった子供のように泣きそうな顔をしていた。
 それが彼女の姿を見るなり目尻が緩んで甘えた表情になった。
 初めて見る表情だった。
 初めて見る、素直な心からの甘えたくてどうしようもない嘘偽りの無い顔だった。
 ずっと隠していた防御の盾を忘れたその顔は、まぶしそうに彼女を見ている。
 その顔を見ただけで、彼女は彼が罪悪感にまみれている事を知った。
 そんな無防備な表情を見せてしまうほど、自分を装う事を忘れていたからだった。
 自分を装う事を忘れた彼の姿など見た事がない。
 それは彼が何よりも自分を愛していたからだった。人を想う気持ちが自分より優先するなど有り得ない。有り得ないから、人に気持ちを乱される事はない。
 それが今は自分を忘れるほど彼女に気持ちを奪われている。
 彼女の胸にトクリと起こる感情があった。
 それはむせるような愛しさだった。
 やがて彼はふいと彼女から目を逸らすとまた視線を下に戻した。
 どうしていいかわからないのが彼女には手に取るようにわかった。


 彼から少し離れた場所に移ると彼女は書類を眺め始めた。
 自分から言葉は掛けなかった。
 そこに居るだけでいい。
 そこに居ることが不可欠だと彼女にはわかったからだった。
 彼にはもう自分が絶対だ。
 絶対的存在。
 傷付けてその返り血を浴びるほどの事をおかしても絶対だった。
 彼女の存在しない世界など有り得ない。
 不思議とそれが彼女にある種の満足感を与えた。
 それほど自分を必要としている彼に博愛的な愛情を越えた何かを感じた。
 博愛的な愛情しか人に注げなかったのは、人に感情を移入しすぎて傷付く事を恐れていたからであり、それが人を受けいれることを拒むことに繋がっていた。
 無意識に弾いていた彼の想いに、今ようやくその手を差し伸べようとしている。
 ふと、その時どこかで声がした。
『彼にもう一度機会を与えなさい』
 それはずっと高い空の上から聞こえたようでもあり、また自分の内部で聞こえたようでもあった。
 彼女はその言葉を胸の内で繰り返した。
 気が付くと横に並ぶようにいつの間にか彼が立っていた。
 無言でうつむき加減にただ立っている。
 けれど彼女にはその胸の内の声が聞こえた。
 彼女も黙って彼を見る。
 言葉は無くとも無言のうちに心は伝わっていく。
 ごめんね
 傷付けて、ごめん
 聞こえない声がそう伝えるのを彼女は聞いた。

 そして、『側に居て』――と。



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* 執筆 * 2013..01.14 *
『錯覚から生まれる恋はあるのか』続編です。